忘れられない和やかな愛情



ネタばれなあらすじ(読む場合はctrl+A)
 大学受験を控えた常盤勇司(ときわゆうじ)は、同い年の幼馴染である久保健生(くぼたけお)のことが好きだが言い出せないでいる。健生が不治の病に倒れ、ますます想いを口に出しづらく辛い日々を送っていた勇司だが、毎日の見舞いは欠かさなかった。
 病室で恋愛ドラマを見ていた健生が口にした『恋がしたい』の一言に、思わず恋人に名乗り出た勇司だが、軽く断られてしまう。一旦は落ち込んだものの、健生が自分を残して早死にすることを気にして断ったと知り、それでも構わないからと限られた残された時間を楽しむようになる。
 健生の病状が落ち着いて永遠に続くと思われた時間だったが、やはり死の影から逃げることは難しく勇司は一人残されてしまった。
 健生が最期に発した、『もっとイイ恋をしろ』という遺言を果たしたいと思いながら、果たせそうにないと泣く勇司で物語は終わる。




 涼しい室内から灼熱の外へ出かけることに決心がせっかくついて靴を履いた所だったのに、タイミング悪く電話が鳴った。しかもケータイでなく家の電話で、困ったことに本日の外出は僕が最後のため家人は誰もいない。
 電話を取ろうと焦ったせいで足とスニーカーがもつれ、転ばないように必死に足を踏ん張ると、一歩分だけ土足で廊下に踏み込んでしまった。
「やべぇ……けど、早く電話にも出ないと切れちまうかも」
 土足で家にあがりこんだなんて親にバレたら何を言われるだろうと思いつつ、電話の受話器を上げるために、たかだか数メートルの距離を走る。
「はい、常盤ですが……って、何だ健生か。ああ、今日もそっち行こうと思って、今、靴を履いた所だったよ。家電じゃなくてケータイにかけてくれりゃ靴を脱がなくて済んだのに」
 電話の主が、これから会いに行こうと思っていた久保健生からのものだったので、澄ましていた声を僕は一気に脱力させた。
 本当は大好きな健生の声が聞けて、とても嬉しい。ケータイでも家電でも、これから会うのだとしても、少しでも健生が僕のために時間を割いてくれたことがとても嬉しかった。
 だけどそんな浮足立つ心とは裏腹に、今までの悪友付き合いに慣れきった口が発する言葉はどうしてもキツくなってしまう。
 幼馴染としてずっと一緒に居たのに健生のことが恋愛の意味で好きになってしまって、でもそれを伝えようにも僕達は男同士だ。
 伝えることで関係がギクシャクしたり、いっそ絶交になんてなったら悲しくて、僕はもう5年以上、彼への片思いを続けている。
「いいよ、気にして無いって。で、これから会うってのに何の用だ? あ? 梨を忘れてないかを確認するために掛けた、だ? お前、そんなことの為に……大丈夫に決まってるだろ。あんなにしっかり約束してたんだからさ」
 僕の刺々しい言い方に謝った親友を大したことじゃないとなだめたが、電話を掛けてきた理由を聞いて、僕はなだめなくても良かったかもしれないと思い直した。
 どんな下らない電話だって声が聞けて嬉しいと内心は思っていても、普通の友人ならここは怒るべきだろうと語尾を荒げておく。
「じゃ、切るぞ! こっちは、この猛暑の中、そっちに出かけるんだからガンガンにクーラー掛けとけよ!」
 健生におすそ分けを頼まれた、ばぁちゃん家から届いた梨はキチンと袋に詰めてテーブルに用意したのだ。忘れる訳が無い。
「……って、テーブルに置いたままじゃ忘れてるってことじゃん。やべぇ、健生が心配してる通りだ」
 僕は居間に入って梨の入った紙袋を抱えると、今度こそ暑い外へと踏み出した。


「こんちわー、梨のお届けにあがりました〜!」
 健生の部屋のドアをノックもせずに、中に入る。
「お、いらっしゃいませだ、勇司。ちゃんと部屋を冷やしといたぜ!」
 ベッドに転がってテレビを見ていた健生が、ヒラヒラと僕に向かって手を振った。
「うん、涼しくてイイ感じだ」
 梨を健生に手渡すと、僕はさっそく吹き出し口の真下に立ち、汗でべたつく身体に冷たい風を通す。自転車で走りぬけた地獄が嘘みたいに思えるほどの至福だ。
「使うか?」
 僕の汗だくの様子に同情したのか、タンスをまさぐり、健生がタオルを投げて寄越してくる。
「自分で持ってるけど……せっかくだから使わしてもらうわ」
 せっかくの好意を無下にすることもないと、汗が搾れそうなTシャツを脱いで身体を拭き始めた。
「お前、やっぱり筋肉ねーな……でも、肌の色はイイ具合に焼けてきてる」
 片肘をついてベッドに転がったままの健生が、ぼんやりと僕を眺めている。華奢な身体を見られるのも、それを健生に見られているのだということも恥かしかったが、今さら隠すのもおかしいと、僕はつとめて平静を装った。
 けれど、身体だけではなくて、更にその先の心まで見つめられている気分で、どうにも落ち着かない。
「まぁ、毎日のように、このクソ暑い中、30分も自転車で、お前の所に来てりゃーな。……万年帰宅部で生っちろいとか馬鹿にされてた僕だって日焼けぐらいするさ」
 僕は憎まれ口のように言葉を発することで、必死に自分の想いをひた隠した。
「あ、こんな冷えた場所で、そんなもん着たら風邪ひくぞ。今日はかえのシャツを持ってこなかったのか? ったく、勇司は本当に忘れっぽいよな。コレでも着てろ」
 梨の紙袋を持ってくることを健生に言われて思い出したかわりに、僕はリュックを背負ってくるのを忘れていたのである。
 そんな僕を困ったような笑顔で見つめた後、健生が今度はTシャツを投げてきた。
「ブカブカなんですけど……」
 僕より20以上身長も体重も大きい健生のシャツは、ハーフパンツも覆い隠して、まるでTシャツ一枚しか身につけていないように見える。
「Tシャツを着てるってより、Tシャツに着られてるみたいだな……ま、ソレよかマシだろ。な、着替えた所で、梨、剥いてくれないか?」
 汗に濡れたTシャツを指差した後、健生は一番、食べごろの梨を僕に向かって差し出した。
「冷やした方が美味いぞ? とりあえず、コッチは冷やしておくからな」
 僕は健生の差し出した梨を受け取らずに、ベッドの上に置かれた梨の紙袋を部屋に備え付けの小型冷蔵庫にしまいこむ。健生を振り返り、考え直したらどうだろうという視線を向けたが、健生はカバーに包まれた果物ナイフも棚から探して差し出していた。
「冷やした方が美味いのは分かるけど、今すぐ食べたいんだよ……ほら、ナイフもあるから宜しく頼むよ!」
 健生があまりに懸命に懇願するので、仕方なくベッドの隣の椅子に座って剥き始める。
「何だ、そんなに見つめるな……見世物じゃないぞ」
 指に注がれる熱い視線に、思わず声をあげた。
「いや、見事なもんだな、と思ってな。俺がこの間、梨を剥いたら凄いことになったってのに……」
 両親が共働きのせいか自然と身につけた包丁さばきのお陰で、梨を剥くなど朝飯前である。大柄な体躯に反して細かいプレーにも対応できる技術派などと高校野球で評されていた健生でも、どうやら手先までは器用といかなかったようだ。
「そういや、テレビ、その番組でイイのか?」
 僕が見られて困惑しているのを感じたらしい健生は、コチラに背を向け、再びテレビを見始める。
「ん? お前、ドラマの再放送は嫌か?」
 テレビでは一昔前に流行ったドラマが流れていた。
「いや、イイなら構わないんだ」
 健生に向かって、出場出来なかった甲子園を見ないのかなんて聞くのは酷だと気がついて、口を噤む。
「あ〜、恋がしてぇなぁ……」
 テレビに見入っていた健生が、突然ボソリと呟いた。
「は? 急に何だよ? 坊主に直射日光浴び過ぎて、遂に頭に何か涌いたのか?」
 梨を剥き終え八等分に切り分けながら、健生の後頭部を見つめる。スキンヘッドに、窓からさんさんと差しこむ夏の陽射しの刺激が悪いのじゃないかと、下らない心配がよぎった。
「勇司、ソイツは坊主差別だろ? 言っとくけど黒い方が日光吸収するんだから、受験に向けて髪を黒く染め直したお前の方が……って、まぁイイや。いや、こういうドラマ見てるとさ、何か恋人がいるのってイイかもなぁって思えてきたから、さっきのような発言をしたんだよ」
 健生の指差す先の画面で、恋人達が楽しそうに笑っている。
 僕は、そのドラマをリアルタイムの時も、現在も見てないので内容は全くもって分からなかった。だけど、膝枕で耳掻きをしながらじゃれあっていた男女が、今まさにベッドへと流れ込もうとしているシーンだってことくらいは分かる。
「何だ、エッチがしたいってこと?」
 種も削ぎ落とした梨を皿に盛り、その内の一番大きいモノを健生に手渡しながら、僕はなるべく気楽な雰囲気を装って尋ねた。
「ったく、お前はいつも短絡的だよな。俺は恋がしたいの。恋人とイチャイチャしたり、甘ったるさでくすぐったくなるくらい愛を囁きあったりしたいんだよ。エッチなんてのは二の次な訳。そりゃ出来るに越したことはないけどさ」
 シャクッというイイ音を響かせながら梨を齧った健生は、感じた甘みに顔をほころばせたが、その目は愛を囁きあっている画面を真剣に見つめたままである。
「恋なぁ……今までの人生でアレだけの女の子を適当に振った男の発言とは到底思えないな」
 健生とは同じ年に、隣同士の家に生まれついて以来、18年にも及ぶ長い付き合いだが、これまで一人として女の子とマトモに付き合ったのを見たことがなかった。
 僕と違って長身で、野球部のエースで成績も良い、見た目は少しゴツイが悪くないし、性格も親友として素直に自慢出来るほどイイ奴である。そんなコイツを女の子が放っておく訳がなくて、沢山の声がかかったのを僕は今まで嫌というほど見てきていた。
 そんなよりどりみどりで恋人を選べたはずの奴が、今更、恋がしたいとかイチャイチャする相手が欲しいとか言い出すのは、何だか矛盾して聞こえる。
「……そりゃ、仕方ないだろ。俺、女の子に興味ねーもん」
 僕が怪訝な顔で健生を見ていると、奴はユックリと味わっていた一口目の梨を喉を鳴らして飲み込み、溜息をついてから、サラリとそう言ってのけた。
「勇司に言ってなかったけど、俺は昔から女じゃなくて、男が好きなんだよ」
 特に表情に変化の見られない健生の横顔を見つめる僕の心臓が、早鐘のように高鳴ってくる。自分の顔がみるみる赤くなっていくのが、感じられるくらいのドキドキ具合だ。
 まさか幼馴染が自分と同じように男が好きだとは予想してなくて少し驚いたけれど、冗談だと返す素振りを見せない健生に向かって、僕は一大決心をして言葉を放つ。
「へー、男の方が好きだったのか……。じゃ、手軽な所で僕なんか相手にどうだ?」
 皿に載せた梨に自分も手を伸ばしながら、僕は自分の手が震えているのに気付いた。
「ヤダね。俺は報われる恋がしたいの。皆に祝福されるようなぁさー……って、俺と恋に落ちて幸せになれる訳がないか……」
 簡単に僕の申し出を蹴った健生に少しがっかりしながらも、僕はソレを悟られないように、すぐに笑みを顔に貼り付ける。そんなコッチの心情を知ってか知らずか、健生がテレビの画面に背を向け僕の方に向き直った。
「報われない……って男同士だから? そんなことは無いだろ! 健生みたいな男とならちゃんと幸せになれるさ」
 声の震えを隠せない僕は、せめてしっかりと健生を見つめる。
「俺みたいな男とならちゃんと幸せ? また、随分な皮肉だな。男同士だとか以前に、ココがどこだか勇司だって知ってるだろ? ホスピス病棟だぞ」
 健生はやっと三口目を齧り始めた梨を握り締め、今にも泣きだしそうな笑顔になった。
 その笑みに健生から、ホスピス病棟に移ることを勧められたと聞いた時の記憶が蘇る。
 健生は一月前、これ以上の治療は副作用で逆に身体を壊していくだけだからと、静かに過ごさないかと勧められた。要は、治療ではなく余生を楽しむべきだと言われたのである。
 僕としては、アレだけ治療に苦しんでいた健生の苦痛を取り除く措置だからと、少しでもコイツが楽になれることにホッとした。だけど、コイツの気持ちはどんなものだったのだろう。
 口にこそしなかったけれど、匙を投げられたと思ってたんだろうか。でも、健生は最終的に戦わない勇気を自分で選んだのだ。
「分かってるよ。だけど……僕なら、それでも幸せだよ」
 健生が握り締めている右手をやんわりと両手で包み込む。僕の返事に、健生が静かに微笑んだ。
 健生の笑顔が何だかとても寂しそうで、僕は本気で言っているのに、もしかしてただの同情だと思われたのじゃないかと心配になる。
「……そう言ってくれるのはすごい嬉しいし、夢みたいだけど、お前と俺じゃ、誰かに祝福されるのは無理そうだし、例え、今、幸せになっても、後で、絶対、お前泣くじゃん」
 健生は長い間を置いてから、左手を僕の両手に重ね、小さな声で振り絞るように答えてきた。
 健生の返答から察するに、どうやら僕達は想いあっていたらしい。
「そりゃ、幼馴染の親友だぞ。例え、恋人じゃなくたって泣くよ」
 健生が余命3ヶ月を宣告された半年前から、実はコイツの見えないところで僕は泣き通しだった。本当は今だってすぐにでも泣き出しそうなほど辛い。
 健生は、僕をジッと見つめた後、握り締めていた梨を皿の上に置いて、傍にあったタオルで手を拭った。
「同情とか、一時の気の迷いとかじゃないんだな……本当に俺が好きで、一緒にいたいって想ってくれてるのか?」
 梨の香りのする健生の大きな手が、こわごわとした仕草で僕の頬に触れる。
 優しく指で撫でられて、僕は自分がすでに泣いていたことに気付かされた。
「もちろん……想ってる。ずっと好きだった……だけど、きっとこんなことを言い出したら健生は困るだろうと思って、僕は言い出せなかったんだ」
 僕に触れる健生の少し骨ばった手を包むように、手を重ねて答える。
「俺もずっと好きだった。キス……してもイイか?」
 すでに顔が近付いているのに、わざわざ確認を取られるのは気恥ずかしかったけれど、僕はそのまま静かに頷いた。


「健生……大丈夫なのか?」
 Tシャツの上から僕の身体をまさぐり始めた健生の手を掴んで尋ねる。健生とエッチがしたくない訳じゃないが、流されるままに病院でしてしまうのは気が引けた。
「平気、普段から自分で抜くこともあるんだ。一回、やったくらいで急激に悪くなったりしねーよ」
 健生は一旦、Tシャツからは手を引くと、僕の脇に腕を入れベッドの上にあがらせる。ベッドの上で靴を履いたままなのは居心地が悪いので、手を伸ばさずに脱ごうとモゾモゾしていると、健生の手が伸びてきて丁寧にスニーカーを脱がされた。
「いや、そうじゃなくて、いや、それもあるんだけど……看護師さんとか先生とか来ないの?」
 ベッドの上に座ると、落ち着く暇もないまま、僕に触れようとしてくる健生の手との戦いが再び始まる。病気の健生の手くらい、非力な僕でも何とかなるんじゃないかと思いたかったが、基本的な筋力が違うせいか、どうにも無理そうだった。
「治療病棟みたいに頻繁に検温や巡回診察があるわけじゃないから、心配するな。母さんも今日は用事あって来れないって言ってたし、夕飯が運ばれて来るまでは2人っきりだ」
 それでもTシャツを必死で掴んで健生の手を拒んでいると、ふいにハーフパンツに手が伸びてくる。虚をつかれた攻撃で、嬉々とした顔の健生にハーフパンツを脱がされてしまった。
 残りはトランクスとTシャツだけで、状況的にも逃げるのは難しいだろう。
「で、でも……その……」
 迫ってくる健生に対して、僕はジリジリと後に下がった。
 そんな僕の様子に、健生が溜息をついた後、困ったように微笑む。そして大きな手で僕を包み込み、耳元に口付けてきた。
「何だ、するのが怖いのか? 大丈夫、ちゃんと優しくやるって、俺に任せろよ」
 初めてなので怖いとか、好きだけど急にエッチまで進むのは……とか、そんなことを言えるような身持ちの固い人生は送ってない。それに大好きな健生と出来るのだから、本当は嬉しくて自分から迫りたいくらいだ。
 じゃあ、何で拒むのかと言えば、やっぱりココが病院だというのが気になって仕方ないのである。
 でも、健生をエッチが安心して出来るような場所へ連れ出せるチャンスは、そうそう巡って来るもんじゃなかった。そして、下手をすれば一生機会を逸するかもしれないのも知っている。
 先日だって、急な体調の悪化で外出許可がキャンセルされたばかりなのだ。
「そうじゃなくって、やっぱ病院でするってのが不安なんだよ……。マジで誰か入ってこないとは言えないじゃん。せめてカーテンと鍵くらいかけさせろよ!」
 僕は覚悟を決め、健生の目を見据える。僕の睨みに一瞬、怯んだ健生の手をすり抜け、ベッドから下りると日の差しこむ窓にカーテンを引き、ドアに鍵をかけた。
 振り返ると健生がニコニコと笑っている。
 ベッドまで数メートル。
 テレビから聞こえる音がやけに耳に響くけど、内容はさっぱり頭に入ってこない。
「お帰り、勇司」
 ベッドに自分からあがると、健生が優しく抱きしめてきた。
「ただいま、健生。石鹸のいい香りがするな」
 健生を抱きしめ返して肩に頭を預けると、首筋から柔らかく立ち上る香りが鼻をくすぐる。
「今日は入浴日だったから、空いてる午前中に入ったんだ」
「僕、汗臭いだろ……そんなにくっつくな」
 何だか急に自分の体臭が気になって、健生の腕の中でもがいた。しかし、健生は僕が離れようとするのを許さず、更に強く抱きしめてくる。
「確かに汗の匂いはするけど、別に臭くないよ……むしろ興奮するって言うか……」
 健生が僕の着ているTシャツを脱がせながら、首筋に舌を這わせてくる。
「うわ、止めろ。舐めるなって……っあ……」
 舌が与える刺激に思わず声が上がってしまった。恥ずかしくて肩に顔を埋めると、今度は舌が耳元に伸びてくる。
「イイ声出すな」
 耳を舌で撫でながら囁かれ、更に恥ずかしさが増した。
「……やられっぱなしなんてムカつく」
 自分ばかり流されるのに耐えられなくて、僕の方から仕掛けてやる。健生の頬を手で挟みこみ、噛み付くように唇を奪った。
 唇を舌でなぞり、歯列をくすぐる。中に舌を差し入れると健生の舌が、僕の動きに合わせて絡んできた。リードを取られないように、舌をついばんでは撫で上げ、翻弄してやる。
「……ふぅ、勇司……お前、上手すぎだろ」
 お互いに攻めあうことで荒くなっていく息苦しさに喘ぐように唇を離すと、健生が溜息とともに感想を吐き出した。
 僕の攻めっぷりに驚いている健生に曖昧に微笑んだ後、僕は再び唇にキスを仕掛けながらパジャマのボタンに手を掛ける。そして唇から顎、首筋、鎖骨、胸、腹と……徐々に舌を滑らせていった。
「フォローするもの無いし、念入りに濡らしとかないと。久々だし、この大きさだと一苦労しそうだからな」
 健生のすでに勃ちあがっているモノに軽く唇をあてる。その刺激に感じたのか、ビクンと奴が震えた。
「キスも手慣れてるし、エッチが初めてじゃないってのは分かったけど。……勇司、される方の経験もあるのか?」
 僕の頭に手を置き、コチラを覗き込む健生の表情が困惑している。健生とは長い付き合いだけど、好きだからこそこういう面は見せたくなくて隠してきたのだから、驚かれても仕方ないのだろう。
「その言い方だと返事は微妙になるな。僕はされる方しかしたことないよ」
 ココまできてネコをかぶるのもおかしいだろうと、僕は出来るだけサラリと返事をして、健生のモノを咥え込んだ。
 かすかな石鹸の香りと、むせ返るような雄の匂いが口の中にひろがる。出来るだけ濡らそうと、唾液を多めに絡ませるとピチャピチャという淫音が部屋に響いた。
「ん……あんまり、されると、あっという間に出そう……。勇司、棚の二段目にワセリンあるから……ソレ……」
 健生が荒い息を押し殺しながら、僕に潤滑油の存在を教えてくる。
「えーと、ココ? あ、本当だ。何でこんなの持ってるのさ」
 健生に言われた通り棚を探ると、使いかけのワセリンの小瓶が入っていた。
「リップがわり。唇が荒れやすいんだけど、リップって香りがついてるのが多いから苦手でさ。その点、ワセリンだと使いやすいんだよ」
 そんな上の口に使ってるものを下の口に使ってイイのだろうかと悩まないでもないが、使った方が絶対に楽なのでありがたくワセリンを指に取る。
「あっ……」
 ワセリンの瓶を棚に戻そうと腕を伸ばしたが、ベッドのシーツに足を取られ転びそうになった。何とか転ばずに済んだもののテレビのリモコンを手で踏んでしまい、チャンネルが切り替わる。
 ドラマから一転して甲子園を映しだした画面に、健生が表情を硬直させた。
「……今年は残念だったね。うちも2回戦負けに終わったし、健生が出てたら今頃ココで活躍してたかな?」
 野球の話題を避けようとするのも不自然な気がして、わざと真正面から切り出す。
「そりゃ出れないのは残念だよ。……でも、俺が出てたからって、うちが勝ち進めたどうかは別の話だろ? 去年のはやっぱ、出来すぎだったしな」
 秋の大会も終わった冬の日、すでに健生は病院にいた。春の予選には間に合わずとも夏の試合には出れるはずだと誰もが信じて治療していたのに、現実はとても残酷で、今、健生がしていることといえば、出来るだけ安らかな死を迎える準備。
「そう言えば、去年の今頃、調子悪いって言ってたっけ……」
 たかだか一年前のことなのに、それは酷く遠く感じた。健生が楽しそうにグラウンドを走っていたのが懐かしい。
「期待された重責で調子が悪いとばかり思ってたのがマズかったのかもな……」
 健生は無表情で、ぼんやりと画面を見つめていた。一切を殺いでしまったような顔は術後に『末期でした』と告げられたんだと、自分を責めながら僕に教えた健生にダブって、少し怖くなる。
 慰めても、怒っても、何をしても健生は自分を責めつづけた時期があった。
 だけど、体調の悪さを知っていながら見過ごしたのは、何も健生だけじゃない。僕だって同罪だ。
 血を吐いた健生に、大事な時期だから黙っていてくれと頼まれた時に、それでも病院にひきずっていくのが、僕がやるべきことだったんじゃないかと今でも後悔はつきない。
「……ね、続きしてもイイ?」
 沈黙にいたたまれなくなって、僕はテレビを消すと、精一杯の笑顔を浮かべて健生の足に絡んだ。
「今度は俺が攻めたいな」
 健生が僕のトランクスに手をかけ、スルリとソレを脇に追いやる。
「でも、ワセリンは自分の指に取っちゃったし……」
 僕の右ひとさし指と中指にぬめるワセリンを健生に見せつけるように差し出す。すると、健生が僕の脇を抱えて半身を起こさせた。
「じゃ、勇司は自分で下をほぐす。俺はコッチを攻めるってのはどう?」
 健生の足を膝立ちの姿勢でまたがされて何をされるのかと思ったら、乳首に舌が伸びてくる。健生の舌が僕の乳首を転がし、唇が柔らかく甘噛んできた。
「あ、ちょ……健生……やぁ……」
 イキナリの行動に、抗議しようと腕を出しかけたが、ワセリンのついた指で叩くわけにもいかず、困ってしまう。その僕の逡巡を見抜いたように、健生は執拗に胸を責め立てきた。
「ほら、俺のことは気にしないで、ほぐしてイイよ」
 健生の腕が僕の指を下半身へと導く。
「イジワルだな……」
喋りながらも責めの手をゆるめない健生の肩にもたれかかり、耳元で呟いた。
「知らなかったのか?」
 健生が胸から顔を上げ、コチラに向かってニヤリと微笑む。そして、見せつけるように乳首を舐めあげた。
「……っ、知ってたよ」
 漏れそうになる喘ぎを押し殺し、健生を睨む。
「なら、イイだろ」
 健生は僕の視線をものともせず、愉しそうに乳首を弄び続けた。
 健生に翻弄されているからといってワセリンでぬめる指をそのまま放っておくわけにもいかず、僕は指を自分から窄まりに伸ばす。
 健生のお見舞いに忙しくてすっかり夜に遊ばなくなり、しばらく受け入れる目的で使っていなかったソコは、自分の指でさえも拒もうとしてきた。けれど、根気よく撫でているうちに、段々と深く柔らかく指を咥え込むようになってくる。
「でも、僕も、なかなか意地が悪いって言われてるよ」
 指を受け入れるのに慣れてきた僕は、健生に責められっぱなしでなるものかと、首筋から耳に向かって舌を這わせ始めた。
「……んぁ、ちょ、やめろ……勇司。……俺、そこは……ハァ、ハァ……っ……」
 耳を甘噛みしたり、その溝を舌でくすぐると健生の反応が一気に高まる。
「へー。健生はココがイイんだ……」
 僕の舌や唇の動き一つ一つに、健生が身を震わせて声をあげた。それがとても可愛くて面白くて、僕は自由になっている左手で健生の首にしがみつき、耳を責め立てる。
「……勇司はココがイイんだよな」
 健生は首筋に軽く歯を立てた後、肩口へと舌を蠢かした。身体に快感が駆けぬけ背筋がゾクリとする。自分だけじゃなく、健生にももっと感じて欲しくてより丁寧に耳を嬲った。
「ね……そろそろ、入れてイイ?」
 お互いに弱い所を責め合い、昂ぶってどうしようもなくって自分から尋ねてしまう。
「ん、イイよ……っていうか、入れたい。俺も限界」
 僕のうわずった声に、同じようにかすれ始めた声で健生が答えた。
 僕はその健生の返事に、ゆっくりと腰を下ろす。
「ぅあ……はぁ、んっ……」
 ワセリンでほぐしたとはいえ、久々の質量に思わず声が上がった。
「大丈夫か?」
 健生が心配そうに覗き込んでいるのに気付いて、僕は出来るだけ微笑む。
「大丈夫……。でも、まだ動けそうに無いから待ってほしいな……」
 最奥まで健生を受け入れた僕は、首に腕をまわして一息ついた。
「やっぱり、痛いか?」
「えーと……、そう言う訳じゃなくて……何て言うか、今、動くと色々ヤバいというか……」
 僕の背中を優しくさすってくる心配そうな健生には申し訳ないが、痛いから動けない訳じゃない。
 むしろ、今動くと、感じすぎてしまいそうなのが問題なのだ。
「ふーん……。勇司が動くのがマズいなら、こっちから動くのはイイか?」
 ニヤニヤ笑った健生が、僕の腰を強く抱いて動こうとし始める。
「駄目だって、今は動くのだけじゃなくて、動かれるのも、我慢出来そうに無いんだから……」
 折った膝に力を入れ、健生に動かれないように必死に抵抗を試みた。
「へー、勇司、そんな切羽詰ってたんだ。面白そうだな……」
 健生は僕のそんな様子に愉しそうに軽く腰を揺すってくる。
「うわ……、やめ……マジで、もう……」
 僕は健生の動きに、急にこみ上げてきてしまい、慌てて下肢に力を入れた。
「別に先にイっちゃってイイぞ。やっぱ、俺は何回もって訳にいかないしさ。勇司だけでも存分に楽しんでくれよ……」
 健生が少しだけ寂しそうな顔をする。
 だけど、そんな表情をされたからって、僕が責め立てられるのには同意したくなかった。
「別に、僕も、そんなに何回もイキたいわけじゃな……やぁ……駄目、触るな……んぅっ……」
 健生の言葉に異議を唱えようとしたが、急に前に触れられ、僕の快感が更に増す。
 そして、健生は僕が止めるのも聞かずに何度もソレを擦り上げ、無理やりとも思えるようなスピードで絶頂に押し上げた。
「出てる、出てる。結構な勢いだな。溜まってたのか?」
 健生が僕のモノを弄りながら、耳に囁いてくる。
「うー……、先にイかされるなんて……」
 荒くなる息を必死に整えながら、健生を睨んだ。
「別にイイじゃん。で、しばらくは動かない方がイイ訳?」
 健生は棚に置いてあったティッシュで僕や奴の手についた精液を拭うとニヤリと笑う。
「……動かないでって言ったって動くつもりだろ?」
 僕は健生のおでこに同じくおでこをあわせて、溜息混じりに言葉を発した。
「あ、分かってた?」
 健生が緩やかに腰を動かし始める。
「そりゃ、付き合いも長いしね。大丈夫、僕は見た目ほどやわじゃないから、無茶しても平気だよ」
 僕は、健生の腰の上で自分から動き出した。そして目を閉じて、意識を下肢に集中する。
「凄ぇな……中が波打ってるみたいだ。どうなんてんだコレ?」
 健生が僕の中の蠢きに感嘆の声をあげた。
「さあね、企業秘密かな」
 健生の口にチュッとキスをして、笑う。
 下半身で起きている淫猥なやり取りとは、まるで無縁な軽いキスだ。
「なぁ、勇司……」
 しばらく無言で睦みあっていたが、健生が静寂を破る。
「何、健生……」
 僕は、口を開くとあられもない声を上げてしまいそうで、必死に唇を噛んでいた。
「……いや……イイ…」
 言いかけて、健生はすぐに口を噤む。
「変な健生……」
 僕は健生を笑ったけれど、本当は健生が聞きたいことに気付いていた。僕がどうしてこんなにも慣れていたり、長けているのかが気になっているんだろう。
 でも、そんなことは今、語っても仕方ないことなのだ。
「そんなに、唇噛むなよ……傷がつくぞ」
 健生の指が、気遣うように僕の唇に触れる。
「だって、声が抑えられなくて……」
 声を上げるよう、最初の時に教え込まれた僕には、本来静かにするべき場所でのエッチは向かないのだ。恥ずかしくて、健生に色々と晒したくなくて、僕は声を抑えようと唇を噛み続ける。
「イイ声なのに、上げればイイじゃん」
 健生が噛み締めている唇をペロリと舐めた。
「ヤダよ恥かしい。誰かに聞こえたらどうするんだよ」
 誰かよりも僕が本当に気にしてるのは、健生にあられもない喘ぎ声を聞かれて幻滅されること。
「確かにそれは……」
「な、恥かしいだろ?」
 健生が口ごもったのに、僕は少し悲しくなって顔を伏せた。やっぱり大きく声をあげる男なんて、そうそう受け入れられるもんじゃない。
「いや、恥ずかしいんじゃなくて、せっかくの勇司の声を人に聞かれるなんてもったいないなと思ってな……」
 けれど、健生が続けた思わぬ言葉に驚いて顔を上げる。
「え? あ、ちょっと……タケ……」
 健生の『オ』の字は口の中に飲み込まれた。
 どうやら、僕の口を塞いで声を消してくれるつもりらしい。
 僕は存分に喘ぎながら、今度は健生と同時に絶頂を迎えた。


「あ〜、ダルーい……」
 健生の腕枕の上でボンヤリと天井を見上げる。
「ダルかっただけか?」
 ニヤニヤとした笑みで僕を見下ろしてるのに気付いて、頬をつねった。
「……どうだって、イイだろ。僕が今、思ってるのはダルいってことなんだから」
 よくのびる頬から手を離し、再び天井を見上げる。
「そういや、痛かったりしなかったか?」
 健生の右手が、僕の腰を柔らかく撫でた。
「ん? 大丈夫。初めてじゃないし、ちゃんとフォローもしたしね」
 ワセリンのお陰で挿入はかなりスムーズで、そのためにあれだけ醜態を晒したわけだし……という気持ちは言葉に出さない。
「何だよ、僕が初めてじゃなかったのが、そんなにショックなのか?」
 すっかり黙ってしまった、健生の顔を覗き込んだ。
「まさか……。俺は別にそんなに心の狭い男じゃ……。って、嘘ついたって仕方ないよな。はい、その通り。あんなイイ顔する勇司を今まで知らなかったのが何か悔しくてな。別に俺だって童貞って訳じゃないんだから、責める気なんか全然無いんだけど、それでも何だか……な」
 坊主頭を掻きながら、健生が苦笑いを浮かべる。
 どちらも初めてじゃないのだからと考えればおあいこっぽいが、僕の方が極端に経験が多いのが分かってしまったようだ。だけど、そういうことを見抜ける時点で、健生も結構、数をこなしているのが分かる。
「過ぎたことにヤキモチ妬くより、今を楽しむ方がイイと思うけどな」
 お互いに過去を責め合っても楽しくなんかないので、僕は健生に向かって微笑んでみる。
「ま、ソレは一理あるな」
 健生が優しく、僕に微笑み返した。
 2人で、けだるい眠さを共有しながら、ぼんやりとゆったりした時間を楽しむ。
「あ、そうだ……耳掃除してやろうか?」
 健生の顔を見上げようとした時、耳もとに目がいって、ドラマのワンシーンを思い出した。
「え? 嬉しいけど……あんまり遊ぶなよ……」
 さっき健生の耳を散々、舌で弄ったのが印象に強いらしい。
「大丈夫、下手に感じさせて、もう一回戦! なーんて、僕にも健生にも体力的に辛いことは招いたりしないよ。耳かき持って、ココにおいで」
 ベッドの上で膝枕するため、僕は正座になった。健生がいそいそとベッド横の棚から耳かきを取り出し、僕に渡す。
「なぁ、カーテン開けてもイイか?」
 ベッドの下の方で固まっていたズボンと下着を見つけて、さっさと穿いてしまった健生がカーテンに手をかけていた。
「ん? あ、チョット待って、僕も何か着るから」
 僕は健生から借りているTシャツ被り、ハーフパンツを探す。
「下は履かなくてもイイじゃん。別に外から見られることも無いって」
 健生がベッドの布団に絡まっていると思われるハーフパンツを探す僕の手を止め、ゴロリと膝の上に転がってきた。
「仕方ないな、まぁ、イイか」
 ニコニコと笑っている健生の顔に何だか駄目とは言えなくて、そのまま耳かきを動かし始める。
「勇司のもも、やわらかくて寝心地良いなー」
 ももの弾力を確かめるように撫でた後、健生が視線だけをこちらに向け、ニンマリと笑った。
「どうせ、僕のももは健生と違って鍛えてませんからね」
 健生の言葉に少しムッとしながらも、僕はなるべく優しく耳かきを動かし続ける。
「別に贅肉だから柔らかいだなんて言ってないだろ。何ていうかな……雰囲気が和らぐ感じのやわらかさっていうか……落ち着くってことが、一番言いたいんだよ」
 健生が気持ち良さそうに目を細めた。
「そう言われると何だか恥ずかしいし、緊張しちゃうな……」
 健生の肩をポンポンと叩いて、体の反転を要求する。
「別に、緊張すること無いって、いつも通りで良いんだよ」
 健生が僕の膝の上で伸びをした後、ユックリと体を動かした。


「はい、おしまい」
 綿の方で耳の汚れをサワサワと除いている間、くすぐったいのか小刻みに震えていた健生の体の力が一気に脱力する。
「ん、アリガト。凄ぇ気持ちよかった〜。また、やってくれなー」
 健生は僕の握っていた耳かきを寝転がったまま棚の中に片付けると、こちらを見上げてきた。
「お褒めいただき、光栄でございます殿下」
 あんまり褒めてくる健生の言葉がくすぐったくて、少しふざけて返してみる。
「うむ、うむ。今後とも良きに計らえ」
 そんな僕のおふざけに、更に輪をかけて芝居がかった口調で健生が返してきた。
「プッ……アハハハハ!」
 思わず噴出し、お互いに笑い出してしまう。
「……ああ、綺麗な夕焼けだな……。明日もイイ天気なんだろうなー」
 笑いが止まると、健生が窓の外をじっと眺めだした。
「また、暑くなりそうだけどね」
 僕も同じように夕焼けを眺める。
「勇司、そこの棚に置いてある梨、一つ、取ってくれないか?」
 窓から少しだけ視線を下げた健生が、皿に載せられて棚の上で瑞々しさを失いかけている梨に気付いた。
「新しく剥かなくてイイのか? そろそろ冷えて食べ頃になってると思うけど……」
 冷蔵庫に視線を向けた僕に、健生が静かに首を振る。
「もったいないし、イイよ。俺が何個も食えるなら剥いてもらうんだけどな」
 確かに昔の健生なら、大好きな梨を何個も食べられたのだろうが、今は八等分した1つを食べきるのも一苦労なのだ。
「寝転んで食べて平気? 少しちいさくしてあげようか」
 なるべく、水分を保っていそうな1つを手に取り、一口分になるように歯を立てる。表面の乾いていた梨の中から甘い水分が口へと滲み出した。
「ん、ありがと……。あー、喉乾いてるからぬるくなっててもウマいや。……だけど、何かこうやって食べさせてもらうの、口移しとかともまた違って、スゲー恥ずかしい感じがするな」
 僕の口で一口分にした梨を指で摘まんで口に運ぶと、ゆっくりソレを噛み締めながら健生が頬を赤らめている。
「確かにね……」
 手で丁度良い大きさに千切るのが難しいので口を使い、爪楊枝もないから指で運んだけれど、行動を思い返してみると確かに何とも恥ずかしい気がした。
「なぁ、前に姉ちゃんに聞いたんだけど、梨の花言葉知ってるか?」
 梨を味わっていた健生が、コチラを見上げ尋ねてくる。
「聞いたことないや、何なの?」
 僕は、梨の花言葉なんて気にしたことがなかったけれど、健生が花言葉に詳しいのが何だかおかしくて尋ね返した。
「和やかな愛情だってさ」
 健生が感慨深そうに、幸せの溜息をつくみたいに口にする。
「へー」
 健生の何とも言えない幸せそうな顔と、その和やかな愛情という響きに僕の顔もほころんだ。
「和やかってこんな感じかな?」
 もう一口とねだるように、健生が口を開ける。僕は再び梨を齧って、健生の舌に梨の欠片を載せた。
「何だよ、さっきまであんなに昂ぶってたくせに」
 甘えてくる健生と、その甘えに逆らえない自分がおかしくて、少しだけ悪態をついてみる。
「それは勇司もだろ」
 だけどソレを見透かしたように、健生がクスリと笑った。
「まぁね……。でも、こんな感じも悪くないと思うよ……ずーっとこのままでいたい気分」
 僕は梨を皿に返して、健生の頭をやんわりと撫でる。
「うん、凄くイイな」
 僕の手に懐くように、健生が擦りよってきた。
「あ〜、死にたくねぇなぁ……」
 お互いに何も言葉を交わさず、夕日に染まる顔をぼんやりと眺めていると、突然、健生が呟く。
 僕は健生を撫でていた手を止め、思わず噴き出してしまった。
「急になんだよ……。恋がしたいの次は死にたくない? コロコロしたいことが変わるんだな」
 健生が随分と気楽な声だったので笑えたのだが、ソレに合わせるように僕も冗談めかした口調で答える。
「いやいや、恋は今、真っ最中なわけだし、別の希望を言ったってイイだろ」
 健生が僕を真剣な顔で、しっかりと見つめてきたので僕の顔は夕日の中でも赤さが分かるのじゃないかと思うほど、みるみる熱くなってきた。
「さっきの希望でいくなら、恋人がいて、まぁ、今、イチャイチャもしてるとみなすなら、次は甘ったるくてくすぐったいくらいの愛の囁きもしておくか?」
 健生が言っていた言葉を思い出しながら尋ねる。
「そうだな……でも、俺、好きな子と、そんな風に愛を囁きあったりしたら幸せすぎて昇天するかも」
 健生が照れた赤い顔で、僕の頬に手を伸ばしてきた。
「僕はしつこいから、簡単には死なせないぞ。長生きしろよ、愛しのダーリン」
 頬に触れる手のひらにキスをすると、健生は僕の首に腕をまわして顔へと引き寄せる。
 体を半分に折り、少し苦しい体勢で唇が重なり合った。
「ハニーの為に出来る限り頑張ります」
 唇を離した健生が、ニッコリと笑った。
 僕は、目に浮かんだ涙があふれて止まらなかったけど、つられるように笑う。
「約束だからな」
 僕達は約束の印とばかりに、それから何度もキスを繰り返した。


 季節は移り、年があけても健生は何とか元気にしている。段々とやつれてはいたけど、普通の病棟にいた頃の過酷な治療三昧だった毎日と違って、穏やかに暮らす今の方が顔色だって良かった。
 退院する訳にはいかないものの、外泊や外出許可をもらって2人でクリスマスとか初詣だとか結構、色んなイベントを過ごすことだって出来た。
 健生がイマイチ性欲が湧かないと言うので、秋以降、僕らはキスどまりのプラトニックな関係だが、コレはコレで悪くない。
 3学期に入ってからは受験生のため高校の授業はあってなきがごとしで、僕はそれにかこつけて毎日、見舞いという名目のデートにも来ていた。
 だから、僕はきっと油断していたのだ。
 健生の傍には、やっぱり死の影が迫っているということを忘れて。

「あ、おじさん、おばさん、こんちわ! あれ、清兄ちゃんと正美姉ちゃんまで……こんな平日に仕事は大丈夫なんですか?」
 健生のために昼休みに仕事を抜け出してくるおじさんだとか、家事の合間に様子を伺いに来るおばさんと会うのはいつものこと。だけど、今日は何故か、遠方で働いてるはずの健生の兄ちゃんと姉ちゃんが来ていた。
 幼い頃は健生と一緒に兄弟同然で遊んでもらったけれど、ここ数年会った覚えが無いほど二人は忙しくしていたはずだ。
 健生の家族が廊下に勢ぞろいしていることに、一抹の不安がよぎる。
「勇司君、お久しぶり……。毎日、健生のお見舞いに来てくれていたんですってね……本当にアリガトね。健生の容態が良くないって聞いて、来たのよ」
 正美姉ちゃんの視線の先を追うと、面会謝絶と書かれたプレートが、健生の部屋の扉にかけられていた。
 普段は病院だと思わせないほど普通の作りに見えるドア。なのに掲げられた文字によって、ココが健生の本当の部屋でなく、病室なのだという現実に引き戻された気分だった。
「せっかく来てもらったけど、今、健生の奴、誰にも会いたくないらしいんだ。勇司はアイツから聞いてるだろ……薬の副作用で調子が悪いんだ」
 清兄ちゃんが言っていることは分かる。健生の身体を楽にさせるために使っている、麻薬の副作用が今、顕著に現れているってことだ。
「別に、面会謝絶にしなくてもイイんだけど、あの子の気持ちなの。そういう状態になったら、誰にも会いたく無いって……」
 おばさんが、病室の扉を見つめたまま、僕に話しかけた。
「そうですか……」
 僕はそれ以上の言葉を発することも出来ずに、ただジッと、健生の家族と共に、そのプレートを眺める。
 それから僕が健生に再び会えるようになるまで、2週間の時を要した。

「副作用は落ち着いたが、ほとんどずーっと、眠りっぱなしなんだ。いつ、意識が戻るか分からないし、もしかしたら、もう戻らないかもしれない。それでも良ければ、健生に会いにきてくれないか……」
 会えもしないのに毎日、健生の病室の前に立つ僕を心配したおじさんが、落ち着いたら連絡をするから受験に専念しなさいと言ったのが先週のこと。
『大丈夫、元気な健生に、またすぐ会える』とおじさんが言ってくれたのは、今思えば僕のためだけでなく、自分にも言い聞かせたかったのかもしれない。
 だけど、そんなおじさんの口から、息子に最期の別れを言いに来てほしいと電話が掛かってきた。

 目の前に眠る健生には、沢山のチューブが繋がっていた。健生がホスピスに入ってからは見ていない姿だったので、思わずドキリとする。
「延命って訳じゃないんだけどね。今、この子が苦痛をなるべく感じないようにするには、必要なものなのよ……。健生、勇司君が来てくれたわよ。久しぶりにお話でもしたらどう?」
 僕の動揺を察したらしいおばさんが、僕と意識のない健生に優しく話しかけ、気持ちを和らげてくれた。
「健生……、久しぶり。お前、本当に頑張り屋だよな。だけど、そんなに頑張るな……。僕が死なせないって言ったせいか? そんなの律儀に守ることなんかないんだぞ。僕の辛さより、自分のこと、考えろよ……」
 久々に会った健生は、随分と小さく見える。
 やせ細ってしまった手を握って、辛そうな健生に声をかけると、ゆっくりと目を開いてくれた。
「……勝手に引導を……渡すな……。俺が……まだ死にたくないんだよ……。でも、さすがに……そろそ、ろ……。悪あがきも辛くなってきた……今まで……アリガトな……」
 健生の瞳にジッと見つめられ、僕は嬉しさと驚きと、そして寂しさに同時に襲われドキリとする。
 青白い顔で、こんなに弱々しい声で、今にも死にそうなのに、健生の目はしっかりと生きていた。
「おい、忘れん坊……俺のことも早く忘れて……、もっと……イイ恋しろ……よ……」
 健生が手を引いた気がしたので、耳を口に近づけると、僕だけに聞こえる小さな声で囁かれる。
 健生は、その後、眠るように意識を失った。
 僕は、その場からひと時だって離れたくなかったけれど、受験を放る訳にも行かず、健生の顔を見てから受験会場に行くのが日課になってしまった。


「清兄ちゃん、正美姉ちゃん……健生は?」
 本命の受験も終わり、これからしばらくの間は勉強に気兼ねすること無く、健生の傍にいられる。そんな少し浮かれた気分で病室へ行くと、健生の姿は無く、部屋を片付けている2人に会った。
 いつまでも仕事を休むわけにいかないだろうと、一旦、それぞれの住んでいる街に帰されたはずの2人が、泣き腫らした目で部屋を片付けている。
「ああ、勇司君、受験はどうだった? 本命の日だろ?」
 タンスを整理する清兄ちゃんが、鼻をすすりながら僕の今日の様子を尋ねた。
「そうそう、父さん達に聞いたわ。大変だったでしょう?」
 棚を片付ける正美姉ちゃんも、涙声で僕に尋ねる。
「……健生は、何処に行ったんですか?」
 2人の腕を掴み、強く揺さぶった。
「健生なら地下にいるよ」
 清兄ちゃんが小さく呟くと、正美姉ちゃんが頭を振る。
「違うわよ、兄さん。……地下じゃなくて空の上よ……」
 2人の言葉に僕は転がるような勢いで階段を駆け下りた。

 静かにひんやりと静まり返る空間。無機質でありながら、何だか厳かな地下室で、僕はハァハァと肩で息をしていた。
 健生がいるという霊安室に入ると、ベッドの後ろに飾られている白い花や蝋燭の光が、酷く眩しく目に飛び込む。
「お帰り、勇司君。清と正美に聞いて来たのかい? あの子達、健生の傍にいるのが辛いって、ココにいるのを嫌がるんだよ」
 眩しさと、訃報を信じたくない気持ちとでクラクラしている僕に、健生の前に座っているおじさんの声が優しく響いた。
「何かしないと泣けてくるからって、部屋の掃除なんか始めちゃって……慌しい子達ね。だけど、一番慌しいのは、健生よね。せっかく健康に生きるのが一番と思って名付けたのに……こんなに早く逝くなんて……」
 真っ白な布をかけられて眠る健生を直視するのが辛いのか、おばさんはおじさんの肩にもたれかかって泣いている。
「そうだ、勇司君。健生の顔、良かったら見てくれないか? あの時、死にたくないなんて、言ったくせに、ほら、微笑んでいるんだよ」
 おじさんがまくりあげた布から、穏やかな顔の健生が姿を現した。僕は、導かれるように、すっと、健生の頬に触れる。
 色んなチューブがついて窮屈そうだったけれど、朝、健生は確かに暖かなぬくもりを持っていた。
 今の健生はチューブもなく、様々な束縛から解放されて自由に見えたけれど、すっかり冷たくなっている。
「本当に、まるで、思い残すことなんてないって顔でしょ。きっと、あの、最後に意識の戻った日、勇司君にも、お別れを言えて満足だったのかもしれないわね。最期の言葉で死にたくないとか言ってたのにね……」
 おばさんの言った通り、僕に最期の言葉を告げて満足だったというのなら、健生はきっと僕に新しい恋を見つけろという遺言を残して、満足したのだ。
 自分勝手な奴。自分だけ、完結してんじゃねーよ。
 僕は溢れる涙を拭いもせず、心の中で何度も健生をなじる。
 こんな我侭な奴、僕は……僕は………。
 だけど、どんなに毒づいても嫌いだと思おうとしても。
 健生のことが一番大好きな気持ちが止まらなかった。


 忙しく大学生活を送る内に、あっという間に季節は移り変わって、健生の大好きだった梨が今年も家に届く。
 梨を食べるたびに思い出す健生の遺言。
「あ、やべぇ……。また泣けてきちまった」
 遺言なだけになるべく早く実行してやりたいと思ってはいるが、梨一口で泣けてしまう僕では、まだまだ新しい恋なんて、当分、見つけられそうになかった。



あとがき
小説を書いて暮らしていきたい、出来るならエロが良いと足掻いていた頃のBL小説です。
データ破損でサイトには出せませんでしたが、普通のエロ小説も色々書いていた時期の作品です。
幾らエロを書いても一次予選も通らないほどあまりに箸にも棒にも掛からないので、女性向けに手を出しました。
当時書いて設定が気にいってた『恋せよベイビー』を下敷きに、色々とこねて作りだした話です。
頑張ったつもりでしたが投稿の結果は惨敗で、『文章は読みやすく書き慣れている感じがしましたが、読者の女性達はエロやベッドシーンではなく恋に至るまでの萌を求めています。男同士のエロではなく、男同士の恋を主題にした作品が望ましいです』というような選評をいただきました。
やっぱりBLは俺には難しいようなので、もっと腕を磨いて大好きなエロ小説を書こうと決心出来たターニングポイントの一つです。